奇妙なもの

私は、奇妙なものを愛している。

これは日常が奇妙ではないと感じていることの、うらがえしの気持ちなのかもしれない。

かつて、日常を奇妙なものにしようとする気持ちがあった。そのため、日常の中に、真昼に降りてくる暗い影のようなものを感じられることがあった。しかし、私は、日常から、そうした影を、箒で掃き出してしまった。かくして日常は奇妙なものでなくなっていった。

調べたわけではないが、世の中に同じような人が少なからずいるかも知れないと思っている。

これは年齢や職業性がそうさせているであろう一方、世の中の変化も、関係があるだろう。

子供の頃、友人と、赤瀬川原平のいうところの「トマソン」(:街中にある、無用な構造であったり、建造物を探す試み。また、そのもの。)を探して回ったことがあった。

建物の2階にある無用なドアであったり、よくわからない螺旋階段、下校の道中にある消火栓のような形をしたよくわからないもの、古い駅の片隅にある、鉄とかモルタルでできた、無用な構造の数々。

これらのものがもつユーモアは、友人同士イメージやディティールが共有されていて、従って、発見数が多ければ多いほど、誇らしいものとなった。

これらの報告はそのものが娯楽として行われ、やがてそれぞれの友情がそれぞれに薄まり散り散りに拡散していくなかで、新たな友情のベースとなるものを、トマソンの中から拾い上げた、また拾い上げてもらった、まるで砂金のように。

これらは、現代でいえばInstagramが、この幼稚な構築物の左右上下から均一な光を与えてしまったために、娯楽として成立させなくしてしまった。

 

ブエンディア家の辿った100年の孤独は、現代社会でも発生しうるものらしい。

ものごとを面白く保つために、異なった魔術が古い魔術を駆逐するにしても、その方法によって落とされた影のなかに、異なった濃淡が生まれなければならないと、私は考えている。

ここのところ、奇妙なものが、少なくなっている気がする。

世の中ではどのように感じられているのだろうか、